












レッド・ホット・チリ・ペッパーズ (Red Hot Chili Peppers) はアメリカ合衆国、カリフォルニア州出身の世界的に人気のあるロックバンドである。日本での通称は「レッチリ」。一部のオールドファンからは「レッチリ」が定着する以前の略称「チリ・ペッパーズ」や「チリペ」などで呼ばれる。世界での主な通称は「RHCP」や「Chili Peppers」。
ファンクとヒップホップをパンク・ロック、ハードロック等と混ぜ合わせたミクスチャー・ロックと呼ばれるバンドのひとつ(ただし、ミクスチャー・ロックは和製英語であり、日本以外では通用しない呼称)。現在、オリジナルアルバムを9枚とベストアルバムを2枚発表している。
目次 [非表示]
1 略歴
2 メンバー
2.1 現在のメンバー
3 元メンバー
3.1 ギタリスト
3.2 ドラマー
4 評価
4.1 音楽性
4.2 歌詞
5 ライブパフォーマンス
6 影響
7 ディスコグラフィー
7.1 スタジオ・アルバム
7.2 EPs
7.3 シングル
7.4 コンピレーション
7.5 ライブ・アルバム
7.6 ビデオ
8 日本公演
9 外部リンク
略歴 [編集]
レッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバーがそれまでに所属していたバンドには、チェイン・リアクション (Chain Reaction) やアンセム (Anthym) などがある。
1983年 - アンソニー・キーディス、フリー、ヒレル・スロヴァク、ジャック・アイアンズによりバンド結成。
1984年 - Capitol/EMIと契約し、デビューアルバム『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』をリリース。プロデューサーにギャング・オブ・フォーのアンディ・ギルを迎えて作成される。しかしデビューアルバムでありながらこの作品にはオリジナルメンバーであるヒレル・スロヴァクやジャック・アイアンズは参加していない。
1985年 - ヒレル・スロヴァクが復帰してアルバム『フリーキー・スタイリー』をリリース。プロデューサーにジョージ・クリントンを迎えて作成された。バンドのファンキーな魅力が顕著にあらわれた作品となり、アンダーグラウンドで好評を得る。
1987年 - アルバム『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』をリリース。前作で復帰したヒレル・スロヴァクに続きジャック・アイアンズもバンド復帰して制作された作品で、最初で最後のオリジナルフルメンバーによるアルバムになった。このアルバムから初めて日本盤が発売される。
1988年 - ヒレル・スロヴァクがヘロインの摂取過多により死亡。これに伴いジャック・アイアンズもバンドから脱退してしまう。
1989年 - メンバーにジョン・フルシアンテ、チャド・スミスを迎え、アルバム『母乳』をリリース。このアルバムの裏ジャケットの絵は亡くなった元メンバー、ヒレル・スロヴァクが描いたものである。初めてのチャートヒット作品となり、この頃から会場規模の大きいツアーを行うようになる。
1991年 - Capitol/EMIからWarnar Brothers Recordsに移籍し、アルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』をリリース。全世界レベルでのブレイク作品となる。現在のバンドのプロデューサーであるリック・ルービンが初めて彼らをプロデュースした作品。このアルバムに収録されシングルカットされたUnder The Bridgeで初の全米1位を獲得。また、同じくシングルカットされたGive it awayはグラミー賞のハードロック部門最優秀シングル賞を受賞している。
1992年 - 世界ツアーでの来日中、ジョン・フルシアンテが突如帰国、脱退してしまう。
1995年 - ギタリストにデイヴ・ナヴァロを迎え、アルバム『ワン・ホット・ミニット』をリリース。しかしデイヴはこの作品のみで脱退してしまう。
1999年 - ジョン・フルシアンテが復帰し、アルバム『カリフォルニケイション』をリリース。「スカー・ティッシュ - Scar tissue」で二度目のグラミー賞を受賞。驚異的なセールス枚数を記録し、現在までの最大のヒット作となる。
2002年 - アルバム『バイ・ザ・ウェイ』をリリース。チャドが「vary john」と表現したようにジョン・フルシアンテ色が全面に押し出されたアルバムとなった。アルバムチャートではついにイギリスで1位を獲得した。
2006年 - アルバム『ステイディアム・アーケイディアム』をリリース。初のアメリカアルバムチャート1位をはじめとして全世界24ヶ国で1位を獲得。日本のアルバムチャートでも2枚組の洋楽アルバムとしては、史上初の初登場1位を獲得した。先行シングルとなったDani Californiaが、同年に日本で公開された『デスノート』の主題歌として採用。同アルバム収録のSnow ((Hey Oh))も『デスノート the Last name』の主題歌に採用された。また、このアルバムで三度目のグラミー賞を受賞している。
2007年 - 3月19日の京セラドーム大阪、3月22日・23日の東京ドームの公演は、いずれもボーカルのアンソニーが「急性肺炎、10日間の絶対安静」との医師の所見のため、3月17日の来日直前になって急遽延期された。
メンバー [編集]
現在のメンバー [編集]
アンソニー・キーディス (Anthony Kiedis) - ボーカル担当
1962年11月1日生まれ (1983年-) ミシガン州グランド・ラピッズ出身。175cm。バンド結成時からのメンバーだが、『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』のレコーディングの頃に一度脱退、その後に復帰している。2006年に自伝『スカー・ティッシュ』を発表。
フリー (Flea, 本名マイケル・バルザリー (Michael Balzary)) - ベース担当
1962年10月16日生まれ (1983年-) オーストラリアのメルボルン出身。同じくバンド結成時からのメンバー。ベースの技量は高く、All Music Guideにおいて「one of rock's most talented bassists(史上最も才能豊かなロックベーシストの一人)」と評されている。
ジョン・フルシアンテ (John Frusciante) - ギター担当
1970年3月5日生まれ (1989年-1992年, 1999年-) ニューヨーク出身。元はバンドの熱狂的なファンの一人だったが、亡くなったヒレルの代役として18歳の若さでバンドに加わる。1992年の日本ツアー中に突如帰国、脱退する。一時は歯を全て失ってしまうほどの薬物依存に陥ったが、後に克服してバンドに復帰し、現在に至る。チリ・ペッパーズとしてだけでなく、ソロアルバムも数多く発表しており、2004年の一年間で6連続ソロ作品リリースはファンを驚嘆させた。
チャド・スミス (Chad Smith) - ドラム担当
1961年10月25日生まれ (1989年-)ミネソタ州セント・ポール出身。190cmを超える巨漢。ジャック・アイアンズ脱退後に後任のドラマーを決めるオーディションで実力を認められて加入。サイドプロジェクトも勢力的に活動し、そちらでの来日も果たしている。
元メンバー [編集]
ギタリスト [編集]
アンソニーは「ギタリストの座が安定しないのは、誰もヒレルの穴を埋められないから」とコメントしている。 ジョン・フルシアンテを含めてギタリストの座は数々のメンバーチェンジを経験した。またジョンを含むこの中の多くがストラトの使い手である。
ヒレル・スロヴァク (Hillel Slovak) (1983年以前, 1985年-1988年) 結成メンバー。ユダヤ系アメリカン。名前の発音は、ヒレルというよりもハイレルに近い。1988年6月、ヘロイン摂取過多により死亡。当初は他の親友とのバンド(チリ・ペッパーズよりも古い)とのかけもちであり、そちらの契約の際に一時的に脱退、セカンドアルバムで復帰しサードアルバム作成にも参加した。アンソニー、フリーの無二の親友であり、フリーにロックラジオのチャンネルを紹介しベースを1から教え、ロックミュージックに引き込んだ人物。彼のギタープレイは初期バンドサウンドに彩りを与えた。少年期のジョン・フルシアンテの憧れのギターヒーローの一人であり、ヒレルもジョンと同じく絵画が得意だった(4thアルバム母乳のアートワークの裸婦画は生前にヒレルが描いたもの)。生前にアンソニーと共作した未発表の曲があることが知られているが、アンソニーは「ヒレルが弾かなければそれは違う曲」と、それを音源にする気はない事を明言している。チリ・ペッパーズのギタリストと言えばフルシアンテという印象が強いが、バンド無名時代から応援してきた古参ファンのヒレル人気は根強いものがある。本国ではいくつかファンブックも発売されており、実弟ジェイムズ・スロヴァクの著書が最も有名。
ジャック・シャーマン (Jack Sherman) (1983年-1985年) ヒレル・スロヴァクが他のレコード会社へ移籍した際に臨時オーディションで加入、ファーストアルバム作成に参加した。アンソニー曰く「テクはあるがオタクなギタリスト」で、弦で指を切ってピックアップを血に染めてまで破天荒なプレイをするようなヒレルに対し、ネックに潤滑スプレーをつけるほど几帳面なジャックはアンソニーとフリーの気性には合わず喧嘩が絶えなかった、とアンソニーの自伝で言及されている。脱退後も4th母乳の「ハイヤー・グラウンド」のコーラスなどで参加しており親交はあったようだが、後にアンソニーを精神的苦痛で訴えた。そのような間柄ではあったが、「初期のバンドを支えてくれた存在であることは間違いない。」として、アンソニーは自伝で敬意を表している。
デュエイン・“ブラックバード”・マクナイト (Duane 'Blackbird' McKnight) (1988年-1989年) ヒレルが亡くなった後に加入した黒人ギタリスト。その後すぐ脱退したが、母乳以前のいくつかのEPでは、彼がギターを弾いてレコーディングした曲も存在する。元はP-Funk周辺で活躍しており、現在もジョージ・クリントンバンドの一員。
ザンダー・シュロス (Zander Schloss) (1992年) 日本でフルシアンテが突如脱退した直後、急遽残っていたオーストラリア公演のために声をかけられるが、フリーに「チリペッパーズ向きのプレイではない」と難色を示され四日で解雇。現在はベーシスト、映画俳優として活動。
アリク・マーシャル (Arik Marshall) (1992年-1993年)Lonnie Marshallと共に兄弟バンド「Marshall Law?」を組んでいたギタリスト。92年のベルギー公演から93年のLA公演まで参加。インディーで活動していたアリクにとっていきなりの重労働のスタジアムツアーは心身ともにきついものだったようで、ツアーバス内で強迫的に睡眠をとることでその難を和らげようと苦心していたという。
ジェス・トビアス (Jess Tobias) (1993年) アリク脱退後加入。一週間のみ在籍。
デイヴ・ナヴァロ (Dave Navarro) (1993年-1999年) ジェーンズ・アディクションから加入。 チャド・スミスとはとても仲が良く、メタル、ヘヴィロック志向の重厚なサウンドを得意とする彼のプレイも評価が高かったが、アルバム1枚とツアー参加のみで音楽性の違いから脱退した。
ドラマー [編集]
ジャック・アイアンズ (Jack Irons) (1983年, 1985年-1988年) 結成メンバー。ヒレルと共に古くから参加していた親友のバンドの契約のため一時的に脱退したが、サードアルバムで復帰。アンソニー、ヒレル、フリーという無法漢が揃うバンドの中で、他メンバーを抑え(フリーいわく「ジャックが最も家庭的にまともだった」)気遣った存在。ヒレルの死後、親友の死とバンドの存続との狭間で苦悩し、結局はチリ・ペッパーズを脱退。後に精神病院に入院していたところを元ザ・クラッシュのジョー・ストラマーにソロアルバムのバックバンドとして拾われ、音楽界に復帰した。最終的にはパール・ジャムへ移籍し、チリ・ペッパーズでのキャリアよりも長くバンドに在籍したが、引きずった精神病の悪化で脱退。巡り合わせか、奇遇にもサポートドラマーとして働いていた時に同じくサポートギタリストをしていたデイヴ・ナヴァロと同じ仕事をしていたことがある。後にソロアルバムを出し、フリーやエディー・ヴェーダーに感謝の言葉を送った。07年、LAにてこの3人でパール・ジャムの曲を演奏した。ちなみにエディ・ヴェーダーを当時パール・ジャムのメンバーに推したり、チリ・ペッパーズとの共同ツアーの橋渡し役になったのもアイアンズであり、彼がいなければ間違いなくパール・ジャムは現在の形で存在し得なかったと言える。
クリフ・マルティネス (Cliff Martinez) (1983年-1989年) ジャック・アイアンズが他のレコード会社へ移籍した際、オーディションで加入しファーストアルバム作成に参加した。その後セカンドアルバム制作にも参加。アンソニー曰く「ジャケットや帽子のセンスが俺たち以上に尋常じゃなかった」らしく、実際当時のPVやライブ映像では様々なバリエーションの巨大な帽子をかぶって演奏していることが多い。
D.H.ペリグロ (D.H. Peligro) (1988年-1989年) 元デッド・ケネディーズのメンバー。
評価 [編集]
音楽性 [編集]
チリ・ペッパーズはファンクとハードロックやパンク・ロックを混ぜ合わせた、いわゆるラップロック、ファンクロック(ミクスチャー・ロック)バンドの一つとして有名である。初期はフィッシュ・ボーンやジェーンズ・アディクションなどと共に、これらのパイオニアとして活躍し、その評価向上に大いに貢献した。3rd『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』まではアンダーグラウンドの活動がメインであったが、4th『母乳』で知名度を上げ、5th『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』は全世界レベルでのブレイク作品となり、バンドと共に一躍ラップロックやファンクロックといったジャンル自体をメインストリームへと急浮上させた。
その後はたびたび音楽性を細かく変えながらも、ファンク・パンク色は薄れ、メロディー路線が顕著となり、会心の復帰作7th『カリフォルニケイション』は『ブラッド・シュガー~』を凌ぐセールスを記録し、現在までの最大のヒット作となった。
音楽面で初期のバンドをリードしていたのはベーシストのフリーであり、そもそもバンドの結成理由がフリーのベースラインとアンソニー・キーディスのライミングのマッチングが思いのほか良かったから、というものだったことも含め、まさにバンドの核と言える存在だった。中期以降はジョン・フルシアンテの活躍が目覚ましいが、フリーやチャド・スミスらもライブ・音源双方において、依然として大きく貢献している。
歌詞 [編集]
キャリアの初期から現在に至るまで、バンドのほとんどの曲の歌詞は、シンガーであるアンソニーが担当している。初期~中期にかけてのアンソニーの歌詞における主要な題材は、ドラッグ、性的倒錯、アルコール、男根主義、パンク的アナキズム、ファンク的快楽主義などであり、その音楽自体ともよくマッチングしていると言えるだろう。
キャリアの中期以降は、ヒレル・スロヴァクの死など様々な影響で、詩的で叙情的な歌詞も多く見られるようになった。
ライブパフォーマンス [編集]
彼らの最大の特徴は、ライブでのパフォーマンスにあるとも言える。
初期の頃はライヴのアンコール等でペニスソックス(靴下で局部を隠した以外は全裸)の格好で登場。ある意味この姿がトレードマークにもなっており、その破天荒なふるまいが話題を呼んで、彼らは結成後それほど間を置かずにすぐレコード会社との契約にこぎつけることができた。とあるストリップバーで演奏した時はバーの店長から、毛の露出により大目玉を食らったこともあるという。
これをはじめとし、ロラパルーザ'92ではアンコール時に火吹きヘルメットを着用して、さらにウッドストック'94ではオープニングで巨大な電球の被り物をつけて登場し、「Give It Away」を演奏した。また、カリフォルニケイション期以降もメンバーのノリによっては数多くのライブで前述のようなペニスソックス姿を披露することもある(最近はめっきり減っている)。さらにウッドストック'99ではフリーが終始全裸でベースを弾き通した。パフォーマンス中に暴徒化した一部の観客が放火騒ぎを起こし、アンコールではメラメラ燃える炎を遠方に眺め「Fire」を演奏した。
1997年の第一回フジロックではアンソニーが腕を骨折したまま台風の中でライブを敢行。しかしメンバーのまとまりは欠け、露骨にやる気のないデイヴ・ナヴァロの姿が目立ち、アンソニーは曲中の歌詞に日本人を侮蔑する単語を混ぜて歌った。結局彼らは30分でライブを強制終了し、評価は散々だった(台風で二日目がお流れになったこともあり、この凄惨な初回フジロックはフェスファンの間ではある意味では伝説的なものとなっている)。
このように、ライブにおけるエピソードには事欠かない。
影響 [編集]
オリジナルメンバーである四人が少年期に大きく影響を受けたのは、キッスやレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスなどのハードロックや、セックス・ピストルズやザ・クラッシュ、ギャング・オブ・フォー、ラモーンズ、イギー・ポップなどのパンク・ロックである。(ヒレルとジャック、フリーは高校時代これらのカバーバンドをやっていた)
チリ・ペッパーズの音楽性を形作るうえで影響を受けたと彼らが語るのは、ジョージ・クリントン(2ndではプロデューサーを務めた)、ファンカデリック、スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのファンクミュージックや、パブリック・エネミーなどの当時ではアンダーグラウンドだったラップミュージックである。ジョン・フルシアンテはこれら以外にキャプテン・ビーフハートやP.I.Lなどといった前衛アーティストや、フガジなどのハードコアに影響を受ける一方、メロディーの美しいポップミュージックも少年期に影響を受けたと語る。
ライブでこれらのアーティストの楽曲をカバーすることは多く、また、共演することも多いのだが、それらの中には音源化されていないものも多数ある。
ディスコグラフィー [編集]
スタジオ・アルバム [編集]
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ - Red Hot Chili Peppers - (1984年)
世界総売り上げ30万枚
フリーキー・スタイリー - Freaky Styley - (1985年)
世界総売り上げ50万枚
ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン - The Uplift Mofo Party Plan - (1987年)
全米最高148位 ゴールド 世界総売り上げ75万枚
母乳 - Mother's Milk - (1989年)
全米最高52位 プラチナム 世界総売り上げ200万枚
ブラッド・シュガー・セックス・マジック - Blood Sugar Sex Magik - (1991年)
全米最高3位 7Xプラチナム、全英最高25位 プラチナム 世界総売り上げ1200万枚
ワン・ホット・ミニット - One Hot Minute - (1995年)
全米最高4位 2Xプラチナム、全英最高9位 ゴールド 世界総売り上げ500万枚
カリフォルニケイション - Californication - (1999年)
全米最高3位 5Xプラチナム、全英最高5位 3Xプラチナム 世界総売り上げ1500万枚
バイ・ザ・ウェイ - By The Way - (2002年)
全米最高2位 2Xプラチナム、全英最高1位 5Xプラチナム 世界総売り上げ800万枚
ステイディアム・アーケイディアム - Stadium Arcadium - (2006年)
全米最高1位 2Xプラチナム、全英最高1位 2Xプラチナム 世界総売り上げ700万枚
EPs [編集]
アビイ・ロード E.P. - The Abbey Road E.P. (1988年)
シングル [編集]
トゥルー・メン・ドント・キル・コヨーテ - True Men Don't Kill Coyotes (1984年)
ゲット・アップ・アンド・ジャンプ - Get Up and Jump (1984年)
ジャングル・マン - Jungle Man (1985年)
アメリカン・ゴースト・ダンス - American Ghost Dance (1985年)
ハリウッド - Hollywood (Africa) (1985年)
ファイト・ライク・ア・ブレイヴ - Fight Like a Brave (1987年)
ミー・アンド・マイ・フレンズ - Me and My Friends (1987年)
ノック・ミー・ダウン - Knock Me Down (1989年)
ハイヤー・グラウンド - Higher Ground (1989年)
ショウ・ミー・ユア・ソウル - Show Me Your Soul (1989年)
ギヴ・イット・アウェイ - Give It Away (1991年)
アンダー・ザ・ブリッジ - Under the Bridge (1991年)
サック・マイ・キッス - Suck My Kiss (1992年)
ブレーキング・ザ・ガール - Breaking the Girl (1992年)
イフ・ユー・ハフ・トゥ・アスク - If You Have to Ask (1993年)
ビハインド・ザ・サン - Behind the Sun (1993年)
ソウル・トゥ・スクイーズ - Soul to Squeeze (1993年)
ワープト - Warped (1995年)
マイ・フレンズ - My Friends (1995年)
エアロプレイン - Aeroplane (1996年)
コーヒー・ショップ - Coffee Shop (1996年)
教祖たちのゲーム - Shallow Be Thy Game (1996年)
スカー・ティッシュ - Scar Tissue (1999年)
アラウンド・ザ・ワールド - Around the World (1999年)
アザーサイド - Otherside (2000年)
カリフォルニケイション - Californication (2000年)
ロード・トリッピン - Road Trippin' (2000年)
バイ・ザ・ウェイ - By the Way (2002年)
ザ・ゼファー・ソング - The Zephyr Song (2002年)
キャント・ストップ - Can't Stop (2003年)
ユニヴァーサリー・スピーキング - Universally Speaking (2003年)
フォーチュン・フェイデッド - Fortune Faded (2003年)
ダニー・カリフォルニア - Dani California (2006年)
テル・ミー・ベイベー - Tell Me Baby (2006年)
スノー(ヘイ・オー) - Snow ((Hey Oh)) (2006年)
デセクレイション・スマイル - Desecration Smile (2007年)
ハンプ・デ・バンプ - Hump De Bump (2007年)
コンピレーション [編集]
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ・スーパー・ベスト!!(ホワット・ヒッツ!?) - What Hits!? - (1992年)
アウト・イン・LA - Out In L.A. - (1994年)
グレイテスト・ヒッツ - Greatest Hits - (2003年)
ライブ・アルバム [編集]
ライヴ・イン・ハイド・パーク - Live in Hyde Park - (2004年)
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